中国の人ならば、だれでも知っているあたりまえの魚で、日本でいえば、サバやサンマのようなものか。長安、洛陽など政治の中心が長く内陸部にあった中国では、水産資源として古くから重要で、魚といえばこういう川魚。
誤解されやすいのだが、これらはフナから作られた金魚のような人工魚ではなく、れっきとしたコイ科の野生魚。その姿・食性は違うが、揚子江に代表される悠久の大河の自然に育まれ、長い歴史の間で、どれも同じような成長速度と、繁殖形態をもつにいたった偶然の兄弟たち。
喜歡吃植物性浮游生物及各種微小藻類等 | |
喜歡吃水草及其他草類食物 | 喜歡吃水中的軟體動物,如蚌、蜆、螺等 |
富国強兵をはかる日本は、大陸への進出を図ると同時に、これらの気難しい大魚の移入にチャレンジ。明治以降、国家の事業として稚魚種苗が全国の主要河川に数回移植が行われた。
戦時魚類増産対策が最大
最も大規模だったのが、戦況も逼迫してきた昭和16〜19年の約340万匹。「戦時魚類増産対策」として農林省水産局が中国大陸からのソウギョ移植事業を計画、4年間国庫補助金を交付して導入を実施。福岡、長崎、佐賀、滋賀、東京、茨城など二十七都府県の河川、湖沼に放養されて増産がはかられた。
あくまでソウギョが主目的
日本への移植はいずれもソウギョを目的としたものであったという。しかし、四大家魚はいずれも同様の繁殖特性をもつため、卵や孵化直後の稚魚の段階では見分けがつきにくいこと、産地の生息環境により構成比率もまばらなので、それぞれの魚種別の構成比率は不明らしい。したがってソウギョ以外の三魚種はすべて「混入」していたという扱いである。
*なかにはほとんどハクレンばかりということもあったようだ。またアオウオの稚魚は一見ソウギョに近いため、見極めはできなかったのだろう。今ならこういう取引は成立しないだろうが、このあたりが、いかにも大陸の魚らしいおおらかな話だ。一方では、特に第二次大戦中のものは緊急を要し、緊迫する東シナ海を敵機敵艦に追われながらも渡ってきたという事情もあり、そこまでの余裕はなかったろうと推察する。
歴史を年表で整理してみる。
下表は、水産庁研究部資源課の「外国産新魚種の導入経過」より、ソウギョ類の移植の歴史を抜粋し表にしたもの。明治年代2回、大正年代1回、昭和では戦前2回、戦中4回、戦後3回の計11回行われている。(歴史上、日本の統括下にあった台湾にも大陸からの移植が行われたため、台湾経由のものもあるが、ほとんどは揚子江流域産のもの)
年次(年度) | 移植主体 | 種苗産地 | 配分都府県 | 数量 | |
明治11年(1878) | 内務省勧農局 | 上海 | 東京・長崎・兵庫 | 10尾 | |
明治42年(1909) | 水産講習所 | 台湾経由 | 不明 | 不明 | |
大正 4年(1916) | 台湾経由 | 不明 | 不明 | ||
昭和 2年(1927) | 台湾経由 | 不明 | 不明 | ||
昭和 5年(1930) | 滋賀県水産試験場 | 南支肇慶 | 不明 | 不明 | |
昭和11年(1936) | 滋賀県近江水産組合 | 広東省西江 | 愛知、兵庫、東京 | 不明 | |
昭和16年(1941) | 農林省水産局 *戦時魚類増産対策として4ケ年度の事業 |
揚子江流域 の九江 |
兵庫、長野、福岡、佐賀 | 24万尾 | 計 340 万匹 |
昭和17年(1942) | 茨城他19府県 | 116万尾 | |||
昭和18年(1943) | 茨城、群馬他22府県 | 130万尾 | |||
昭和19年(1944) | 17府県 | 14万尾 | |||
59万尾 | |||||
昭和20年(1945) | 水産庁 淡水区水産研究所 |
中支 | 京都、埼玉 | 1400尾 | |
昭和30年(1955) | 広東省西江 | 埼玉、群馬、岐阜、岡山他8県 | 1万2000尾 | ||
昭和30年(1955) | 11府県 | 2万1450尾 |
しかし、大陸からの稚魚は多くの地域に放たれたものの、ほとんど繁殖して定着するということはなかった。予想されていたこととはいえ気難しい大魚たちの第一世の多くは、産卵すらすることなく生涯を終えていったものと思われる。しかし、戦後まもなく関東平野を貫く利根川水系では天然繁殖が確認され、半世紀に及ぶ悲願の移植の歴史に終止符がうたれた。
昭和18年に移入された130万尾のうち、利根川水系にはソウギョ類23600尾(茨城県霞ヶ浦12,300尾、利根川に11,300尾)が茨城県水試により放流されたという。しかし、前述のような事情から、実際の構成比はハクレン90%、ソウギョ10%とされ、アオウオ、コクレンは1%に満たなかったとされる。このことが現在のこの水系の構成比率をほぼ規定しているもの思われる。
●ハクレン昭和22年(1947)9月、茨城県水産振興所によって確認
●ソウギョ 昭和23年(1948)9月、確認
●コクレン 昭和23(1948) 利根川で4.3cmの稚魚採捕によって確認
●アオウオ 昭和30年(1950)11月 霞ヶ浦で20cmの幼魚採捕によって確認
大陸以外では繁殖できないという学界、業界の定説がやぶられたのだ。中国の輸出業者はさぞかし苦い顔をしたことだろう。
南は筑後川、北は北上川など全国の一級河川に放されたようだが、風土が合わなかったようだ。その意味で利根川は大陸以外の川で唯一彼らに選ばれた超エリートともいえる。(その流れの一部が江戸川として首都を流れているというのが、さらなる歴史の偶然だ。)
ハクレン、ソウギョに関しては人工種苗生産技術も確立されて各地に放魚も行われたが、今、利根水系を泳ぐのは純然たる利根川生まれの野生の「家魚」たちだ。まさに世界に誇れる日本の川だ。
戦後日本が奇蹟的な復興と高度成長を遂げ、いつしかこれらの魚のタンパク源としての目的は忘れ去られてしまったのもある意味皮肉な幸運であった。
利根川水系だけで繁殖した理由
利根川水系だけで繁殖したのは、単なる川の長さではなく、故郷の揚子江に似た流域の地形に起因するものと思われる。
利根川の流域面積は1万6840平方キロ、全国一位である。日本の大河の多くは山地が占める割合が多く、急流河川である。それに対し利根川はそうした概念を多くはずれ、むしろ平野部が流域を占めた形である。
利根川だけが産卵水域が確保されていたこと、また、下流部で連なる広大な霞ケ浦、北浦といった稚魚の生育場、江戸川をふくめた広大な下流域で親魚の生息水域が確保されていたことが大きいと思われる。
《国内主要河川の比較》
河川延長 | 流域面積 (平方キロ) |
山地が占める割合 | |
利根川 | 322km | 16840 | 43% |
信濃川 | 367km | 11900 | 84% |
石狩川 | 268km | 14330 | 71% |
最上川 | 229km | 7040 | 76% |
北上川 | 249km | 10150 | 75% |
【国土交通省河川便覧2000年版より】
以下、少し理科的な視点から、四大家魚を特徴づける繁殖生態の実情についてみてみよう。
産卵場所の変遷
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埼玉県水産試験場の調べによれば、戦後から産卵区域とされていたのは深谷市小山川合流ふきん〜羽生市稲子にいたる24Km区間。特にひんぱんに確認されたのは妻沼町葛和田〜行田市須加ふきんといわれる。
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しかし、昭和43年に行田市に利根大堰が完成以降は、利根大堰下流の羽村市君から、茨城県五霞町の東北新幹線鉄橋までの21kmに変わった。現在の産卵場は最も親魚が集中するのは渡良川合流付近から東北新幹線鉄橋までの下流3kmの範囲とされ、右岸の多くは埼玉県栗橋町である。
*栗橋町は、ハクレンのジャンプの街として有名。6月下旬〜7月上旬には河原が見物客であふれ、出店が出たりして活況。ハクレンフェア―などイベントも開催される。観光協会のホームページには産卵時期が近づくと速報が掲載される。
産卵場所の選択要因@稚魚の成育場までの距離
このあたりは太平洋に注ぐ河口の銚子から130〜140キロほど上流になる。親魚たちはふだん生息している利根川下流や常陸利根川水系から、ゆうに100キロ以上も遡ってくる。それは流下卵という特性を本能として知っているわけだ。
受精した流下卵は水温20℃、36〜48時間後に孵化するという。仮に流速が毎秒1メートルとすると、孵化するまでに130キロ以上流れ下る計算になる。実際は流れの穏やかな場所に滞留したりして、多くは利根川佐原ふきん以下流に孵化するといわれる。
反面、産卵場所から数キロ下流で分流する江戸川に流れこんだ卵は、東京湾まで約60キロほどの流程しかないことから、塩分濃度の関係で生存率は低いという。孵化するのは市川橋以下流と推察されている。
産卵場所の選択要因A合流と河床成分
大陸中国でもソウギョ類の天然産卵は河川の合流ふきんで行われることが多いという。この利根川の現在の産卵場水域では左岸から渡良瀬川が合流している。合流によって流れが拡散し、流れの川底の泥底の洗浄がポイントとなるらしい。
この栗橋ふきんの産卵場水域(河口から130〜140キロ)の河床は礫(れき)と砂で構成されている。この礫(れき)というのは130キロ近辺より下流ではほとんど存在せず、また、150〜160キロより上流では礫(れき)が中心に見られるという。
*地質学的には礫(れき)とは直径2mm以上の砂粒子。礫(れき)、砂、シルト、粘土の順番であり、大きさによりさらに細かく分類されることもあります。
← 礫(れき)→ 2mm ← 砂 → 1/16mm(0.625mm) ← シルト → 1/256mm(0.004mm) ← 粘土 →
大まかにいって、大きな粒子は速い流れでないと運ぶことができず、逆に、小さい粒子は遅い流れでも運ばれやすく、沈みにくい性質があります。
利根川での産卵は梅雨の6〜7月。
利根川水系では5月下旬になるとソウギョ類は産卵のため遡上準備をはじめる。
江戸川でも中流や上流部の足場の高いところに立つと、渋滞の高速道路のように、浅瀬に列をなした大きなハクレンの群れが見えることがある。その群れの近くにアオウオもまれに目にすることがある。一斉に連続して遡上するというよりは断続的な遡上をしているようだ。江戸川上流部などでは水量が少ないこともあり、ひと雨ごとに雨を待っているという風情だ。
産卵はその年の気候によるが、平均すると6月下旬から7月上旬にピークで、梅雨の時期に数回にわけて行われる。埼玉水試の研究で、産卵誘発要因として、下記のような要件が発表されている。やや専門的になるが、要は特に大雨で水かさが増えて、濁りが入ると一斉におこなわれるということである。
利根川におけるソウギョ類の産卵日(1991〜2000) | |||||||||
1991 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 95 | 98 | 99 | 2000 |
7/7 | 7/17 | 6/22 | 7/20 | 6/17 | 7/16 | 6/21 | 7/25 | 7/1 | 7/4 |
【埼玉水産試験場調べ】
ソウギョ類の産卵誘発要因 | |
条件@ | 毎秒500立方以上の流量 |
条件A | 日平均80ppm以上の濁度 |
条件B | 20度以上の水温 |
【埼玉水産試験場研究報告第53号(1995)より】
産卵状況が見えるのはハクレンばかり
四魚種は基本的に同じ産卵行動をする。産卵場に集まる親魚は30〜50万尾といわれるが、ほとんどが10〜20キロ以上の親魚。
だが、産卵行動が観察できるのはハクレンばかりでソウギョ、アオウオ、コクレンはほとんど見られないという。これは泳層と数の違いによるものといわれる。
ハクレンのジャンプ
産卵場に集結したハクレンは興奮あるいは過敏な状況になっているだろう。さかんにジャンプを繰り返し、大変な壮観な光景となる。たとえば鉄橋を新幹線が通過するなど、なにかの拍子に驚いて一匹が跳ねるとたちまち、連鎖反応的に一斉に魚群が跳躍する。
婚姻色を帯びて赤っぽい魚体もいるようだ。この景色は毎年の風物詩で、ふきんの河原は見物客で賑わい、国道4号線の橋上は見物渋滞するほどという。
ハクレンのジャンプ動画 撮影 (有)シーアップ
ハクレンの産卵は、数匹から十匹程度がひとつの群れになり、水面でバシャバシャと水しぶきをあげてオスがメスを追尾し、絡みつきながら産卵する。この水しぶきは「浮花」と呼ばれる。
互いに刺激になるのか、その瞬間は川幅いっぱいに数万のカップルが愛の交歓をくりひろげるという。ただし、そのタイミングは日暮れの夕方だったり、夜明けが多いため、見物客もなかなかその瞬間をシャッターに収めるのは難しいらしい。
川を下るおびただしい数の流下卵
卵の産卵直後は直径1.7mm程度、吸水して5mmほど。ちょうどイクラくらいの大きさで白っぽい半透明状。ちょっとした流れがあれば水中を浮遊する。
雌魚一匹あたりの産卵量は100万粒程度といわれる。産卵場に集まる親魚は数十万として、数百〜数千億万粒単位のおびただしい流下卵が流れる計算になる。
これだけの卵が流下することから、産卵日には産卵場所ふきんの利根川の河原が生臭くなるという。また、下流の江戸川から取水している庄和浄水場(埼玉県)や金町浄水場(東京都)では、取水口で魚卵の流入量を調べて活性炭で脱臭処理しているという。
出会いと別れ。愛の関宿ジャンクション
産卵を終えた魚はまたもとの生息場所である下流に戻っていく。あるものは利根川へ。あるものは江戸川へ。この岐路が関宿(せきやど)。
栗橋の産卵場から、数キロ下流。右岸は埼玉県幸手市になるが、利根川は「Y」字に近い形で江戸川と分岐している。ここの2辺に挟まれた町が千葉県関宿町。(現・野田市関宿=2003年に野田市に合併。千葉県の地図を見ると左上の尖った形になっているところ。)この江戸川起点であるY字を見下ろすように旧関宿藩の関宿城がそびえている。その前に関宿閘門がある。
江戸川から遡上した魚はすべてここを通過して利根川へ上る。そして産卵を終えて下流に下る際にここを通過する。
関宿の分岐点は一年間の人生の岐路。どちらをえらぶか?いずれにしても産後の親魚は途中気に入った場所があればしばらくはそこですごすらしいが、冬までには最下流部へもどっている。どちらにしても魚にとっては同じ川。春に利根川にいた魚が秋には江戸川にいるということが50%近い確率で起こりうるのだ。両河川の魚は、翌年の春にはこの関宿以上流ででまた出会うことになる。
このようにして利根川と江戸川の魚は毎年相互交流して新陳代謝している。その意味で関宿は出会いと別れのジャンクション。「東京で巨大魚」という夢のストーリーはここからすべて始まる。利根川の巨大魚が東京でも釣れるというのが正確なのだ。私はたまたま最下流部の10kmほどのところで釣りをしているに過ぎない。
それにしても最近ご無沙汰の利根川の超大物もたまには東京見物にきてほしいものだ・・・ディズニーシーもできたし。(江戸川の青師のつぶやき)
それにしても100キロ以上の旅の中で、アオウオとコクレンといった希少魚が毎年ペアを見つけて少しずつでも確実に天然繁殖しつづけているという事実に驚愕せざせるを得ない。ハクレン、ソウギョに比べて、ペアが出会える事自体がいちじるしく困難なこと。これもまた奇蹟だと思う。
私は10年の釣りの経験から、ふだんの生息行動においてもアオウオは単独行動することは少ないのではないかと考えている(つまり、雌雄の夫婦+α的なうごき。)これも子孫を残すという意味でのひとつの知恵だろうか。
さらに数の少なく利根川水系全体でも数百匹もいないと思われるコクレンにいたっては想像もつかない。まったくの謎。
ハクレンに遡上タイミングを合わせて、群れの下に潜って川を泳ぎ上るうちに栗橋あたりで相手を見つけるのか。ま、大きければ目立つこともあるだろうが・・・
江戸川の水は利根の水。
さて、やや理科的な視点から、また、社会科モードに切り換えてみよう。
私のサイトでは「東京で巨大魚を釣る」を、いわゆる広告的なキャッチフレーズとして使っている。
ここまで読んでいただいてよく理解していただいたと思うが、江戸川で天然繁殖した大魚が釣れるのは利根川の産卵場水域の下流から分派する川だから。その約50キロの流程の多くは埼玉・千葉県境を流れ、下流の一部、ほんの10kmほどだが、右岸は東京になる。
だから、正確にいえば「利根川産の巨大魚が江戸川の下流でも釣れる」ということである。だが、このことは利根川の歴史を遡ってみると、ある意味でリアリティといえなくもないのだ。
利根川は17世紀までは今の東京湾に注いでいた。現在の古利根川、中川、隅田川を結ぶ形がほぼその原形に近いらしい。現在の利根川の下流は太古の昔から流れていた自然の川ではなく、江戸時代に人工的に作られた川なのである。
1590年に江戸に幕府を開いた徳川家康は、この利根川を東へ東と移し、太平洋の鹿島灘に流す流路変更を主としてこの一連の治水事業に着手した。これを「利根川東遷」という。この工事の目的は(1)洪水の氾濫制御、(2)新田開発(4)北関東・東北地方との舟運確保、(5)江戸の防衛。
16世紀末からほぼ半世紀をかけて基本形が完成されたが、広く言えば昭和初期まで続いた四世紀かがりの大プロジェクトである。この事業の詳細は複雑を究めるのでごく端的に説明するが、利根川と江戸川の歴史的関係、そして四大家魚の繁殖とも地理的に関係する、とても興味深いことに気づく。
(以下、文字での説明では関東の方にも難しいかもしれない。キーワード検索すると図解で詳しく説明されたサイトがあるので興味あればぜひ参照されたい。特に下記は理解しやすくお薦め)
一時は江戸川が利根川本流に
江戸幕府開設前の状況をみると、利根川本流は、羽生付近から南に流れ、江戸湾に注いでいた。(現在の古利根川)
その西には、渡良瀬川があり、その下流部は「庄内川」または「太日川(ふといがわ)」と呼ばれ利根川とは独立して江戸湾に注いでいた。(これがほぼ現在の江戸川。)
利根川東遷は、1594年、太日川の西側を流れていた利根川を羽生ふきんの川俣で締めきって東川の浅間川に流したことから始まる。さらに1621年には新川という直線河道を開削して渡良瀬川とつなげることで、太日川(現江戸川)に流れを移した。
→ここから約20年間は庄内川(太日川)すなわち現在の江戸川が利根川の本流となった時代。新利根川と呼ばれることもあったという。(従来の利根川の流路は古利根川となった。)
さらに1641年には現在の江戸川上流部が掘削され、もとの流路は庄内古川となる(現在の中川上流)
やがて1654年、栗橋から関宿まで「赤堀川」という川を掘って、さらに東側の「常陸川」水系に流すことで基本形が完成。
→これにより、江戸川は治水上、利根川の放水路となり、同時に江戸と房総を結ぶ水運の大動脈ができあがる。一方、それまでの「常陸川」(すなわち現在の利根川下流部)は、利根川とはまったく別のもので、鬼怒川や小貝川の末流をあわせた湖沼の点在する沼沢地であった。
産卵水域と一致の偶然
利根川東遷とはつまり、利根川中流の流れを、流路変更工事によって東にずらすことで、渡良瀬川とをつなげてさらに下流部を常陸川に流す大作業であった。地理的には現在の羽生ふきんから関宿までの数十キロの間。
これでピンときた人もいるだろうが、16世紀末の初期の工事で流れを作られた羽生の川俣ふきんといえば、利根大堰ができる前の四大家魚産卵場水域。
さらに工事上のヤマ場とされる「赤堀川」開削。これは1809年には川幅を約70mに拡張され、渡良瀬川と、前述の関宿での江戸川分派点までのほぼ直線上の利根川本流の流れとなった。これは現在の四大家魚の産卵場水域とほぼ一致する。
つまり16〜17世紀の人為の歴史と、20世紀後半からの四大家魚の生殖の営みの地が地理的にほぼ一致することが私にはなんとも興味深いのだ。だから、私はこのあたりの地名を聞いたり、利根川の流れを思うたびになんとも万感胸にせまるものがある。
もし、この徳川家康が江戸にきて、この世紀の大事業がなければ今の利根川もないし、20世紀になって大陸から移植された魚が日本で繁殖することは可能性はいかなるものだったか。
ただ、見方を変えれば「東京・利根川で巨大魚を釣る」というのも、なりたったかもしれないのだ。
これも、歴史の偶然というか必然というか・・・
*「四大家魚」は、日本の水産研究機関等の論文などでは「ソウギョ類」、英語表記では「ChineseCarp」とひとまとめに表現されている。
*5/20〜7/19、利根水系の各県の漁業調整規則では、産卵期のハクレン、ソウギョの親魚の保護を目的として禁漁期間として、採捕が禁止されている。(ただし、アオウオ、コクレンは明文化された対象としては含まれていない。)