vol.6 「七色のロープ1993」


釣りにおいてエポック的なことは、決して自然発生ではおきない。
偶然を必然にした先駆者の努力がいる。結果のナンバーワンより、オリジナルを確立した人を賞賛すべきと私は思う。

近代的な青魚釣りの歴史はまだ10年にも満たないが、92年から93年にかけて急速に釣技が進歩した。利根川長豊橋ではまさに寄せて釣るタニシ釣法が確立される時であり、私は幸いにもこれを目の当たりにしている。

忘れもしない1993年春。
当時、私が江戸川と交互に通った長豊橋では、カラス貝の遠投が主流であった。
前年に江戸川でブレイクして脚光をあびたカラス貝は、アメリカナマズの増え始めた利根川ではムキ身では餌持ちの点に難があって、使うとすれば大きなものが良しとされた。東京で買うのと違い、水郷方面在住の当時のアオ師は、それこそ背負うような天然のカラス貝を樽に一杯もってきていてうらやましかった。

そのようなころ、Nさんは、まったく別の釣り方をしていた。江戸川で面識があったので、GWに一日並んで釣りすることになった。

その竿のたたずまいは異様だった。
わずか約30センチの等しい間隔で3本がワンセット。それが1メートルほど間を開け、4セット。ほんの5、6メートルの幅に計12本がピトンで並ぶ。
すべての竿には、ご勤務される有名航空会社のロゴシールが貼られていたから洒落ていた。多いときにはこのパターンで30本以上の竿を出すという。

タニシが発泡スチロールにどっさりと入っていた。
長豊橋上流の石積みは二段になっているが、投げることなく、一段目の石積みにウェイダーを履き、餌のタニシを付けた竿を持って胸まで入り、ちょうどかけあがりの3メートルほどの水深の石の上を丁寧に探り置いてくる。その位置に合わせて正確にひしゃくで寄せ餌のタニシを播く。打ち返すときはやはりそのままリールを巻くことはせず、水に入り、真上に引き上げてくるから、根かがりもしない。

3本の竿の真ん中ピンポイントでにしぼり、タニシをまくからきっちりコマセが効く。また、リールでなく、手の感触で置いてくるのだから、石積みの中という過酷な環境で、極めて合理的。
魚が寄ると、ピッチリ同じ角度で揃えた30センチの竿間隔だから、オルゴールのように糸ズレが現れる。真ん中の竿にアタリがくるとどうなるのかと心配だったが、アオは沖に出るから大丈夫と、見事にそうなった。

当時は今ほど、魚もスレていない時代。
GWだから釣り人は多かったが、その人だけものすごい釣れ方をした。とにかくその人のところだけにアオウオが寄り、アタリ続けた。隣の私のところにはなんのアタリもない。
「青釣りでボーズは無いですよ」といとも簡単におっしゃったが、目の前の現実にはとにかく説得力がある。独りで試行錯誤を重ね、ここまでいきついたという。

この釣り場独特のやり方として、いまでこそ普及したが、当時、これは異端であって、漁師じゃあるまいし、などと陰口を叩く人もいたが、このGWの一日の釣果はあまりに際立っていた。
ほんとに爆釣というのは、こういうものだと思う。
その年の夏を待つことなく、皆このスタイルを真似ることとなった。もちろんそれ以前にもタニシを餌に使う人はいたが、通常のブッコミであって、ここまでの徹底した形とはなっていなかった。
これがまさに長豊橋釣法ないしはスタイルの誕生だった。

すぐリリースをしては後が釣れなくなると、Nさんは慣れた手付きでロープで口からエラに手早くつないでいく。
その日私がタモ入れをしたのが150オーバーを含めて4匹。
私はその日は帰ったが、翌週話を聞くと、次の日までやって結局7匹つないだという。

Nさんのロープは一本ごとに色が違っていて、白、オレンジ、黄色、グリーン、ブルー、赤、紫など7色をもっていた。
あの日、岸辺に菜の花咲く五月晴れの長豊橋で、目の前で展開された虹の光景は、いまでも忘れることなく心のフィルムに焼きついている。 

2001.6.25