vol.4 「菖蒲池のヌシと兄弟」


梅雨の季節になるとあの大物を思い出す。
それは、20数年前、荒川上流部の町でランドセルを背負っていたころの話。家から自転車で20分ほどの丘陵に、灌漑用の溜池があった。墓場の前の一角に菖蒲があるので菖蒲池といった。円形で直径80メートルくらい。最深部でも1.5メートル。ヘラ、鯉、小型のレンギョもいたし、ブラックバスもいたから、釣り好きの子供には人気があった。この手の池によくある、主(ヌシ)の噂もあった。

ある土曜日の午後、鯉を狙いに兄と出かけた。
対岸にあの菖蒲が咲いていたから6月ごろだと思う。
僕は市販の吸い込み仕掛。兄はゆでたジャガイモの角切り。「マンガ日本昔話」が始まるまでには帰ろうと思っているころ、僕の竿に鈴がなり、グイと大きなアタリが来た。

合わせるとズシッときて、ゆっくり動き出す。かなりの大鯉か?引込まれなかなか寄せられない。ダイワのスピニングリールからがジージーと糸が引き出される。とはいっても、障害物もなく、円形の池だから時間の問題。ゆっくりやれとの兄の声援をうける。

やりとりしてから40分以上たった。
もうあたりは真っ暗になってしまった。堤の裏にある高校のグランドの照明が唯一の明かり。ふと気づくとライトがない。平坦な岸で鯉も普段なら引きずり上げられるから、玉網ももってきていない。でもこの魚はどうやら・・。父に車でもってきてもらおうと、兄が堤の裏の民家に電話を借りに行ってくれた。しばらくして、網とライトが届いた。

そろそろ魚も近くなり、水面に大きな渦を作りながら重々しく左右に走るその幅が狭くなってきた。そろそろかという合図で一気に寄せてみる。兄が興奮しながら片手にライトでネットを構えた。

そいつは確かにネットに入った。ライトに照らされ、大きな金色の体側が見える。デカイ、太い。みたこともない大鯉だ。水音がすごい。

やったと思った。でも安堵もつかのま、あっという間もなく、尾ビレをひと叩きにして反転、飛沫をかけられた兄が再び魚を追ったが、残ったのは大きな水の泡と渦が。呆然とした。
遊んでいる吸い込み針がネットにかかり、魚はその針を折っていったのだ。

僕にはよく見えなかったが、「ソウギョだ」と兄がいった。
実物はもちろん見たことないし、「淡水大魚釣り」という小西さんの本で知っていただけだが、確かにヒゲがない、カッパのような口だったという。この池でそんなものがいるとは信じられなかったが、その池にはレンギョもいたのだから、誰かが放流した際に混じっていたのだろう。

本の冒頭にはソウギョと20時間以上引き合った話が出てくる。
こいつはそれほどはかからなかったが、子供にとって大魚との1時間は長かった。泣いた。とにかく、泣いた。たぶん、一生でこんなに悔しいことってないだろうと思った。そして、いつかは大きなソウギョを釣ってやろうとふたりとも誓った。

20数年たった今、あの池は後に埋められてしまって、もうそこにない。

釣りキチ三平でいえば魚紳さんなみの道具をもてるようになり、青魚もソウギョも釣ったが、あれほどの長く、緊張した引き合いはいまだに経験してない。
単独釣行が多いので、 玉アミは必ず竿より先に手の届くところに置くし、ライトの準備にも神経質だ。そしてなにより取り込みの時の遊び針には気を使う。トラウマが自然とそうさせる。

高校の英語教師になり、ソウギョ、レンギョが産卵する街のそばに赴任し、小西さんの会にも一時所属した兄は、今、あの夜の堤からグランドの明かりの見えた高校で教鞭をとっている。

2001.6.13